天然の美

UES2009-02-16

 天然という言葉を近頃では、こんな感じで使われたりしますよね。「あの人は天然だ。」「あなたって天然よね。」こういった台詞の場合、その台詞の中には『天然だ』と言われた人に対して無意識であるにせよ、少しばかり馬鹿にした気持ちもありそうです。今回「天然の美」というタイトルにしましたが、そう言う私も他者や周囲もの物事に対して、そんな意識があるかもしれません。はっきり言える事は「天然だ!」と言っているものに対して自分に無いものや「無意識的なもの」を感じているという事です。先日、観光地などによくある顔抜き看板を見たのです。観光客が顔を入れて記念撮影なんかするあれです。ただし自作!、とある場所に展示されていました。もう、ただただ絶句。「よくも、まあ、こんなものつくったものだ」とも思いましたが、何より、その脱力ぶりには感服致しました。私は日頃より昔作られたとおぼしき悪趣味な田舎のラブホテル、意図がよく分からない可笑しな建物や看板の持つ脱力パワーには、呆れると同時に賞賛の思いも感じていました。それは、やはりそこの磁場しか持っていない力、何者も顧みる事のない無意識の力のようなものが感じられるからです。地方をドライブすると必ず一つや二つ目に入ってきますよね。顔はめ看板もまさしく、これに位置します。
 私が見た上記の自作顔はめ看板は、「いったい何故作ったか?」全く持って疑問ですが、私のような全くの他者からの視線というものとはどうやら違う気もします。これら脱力ものの持つ力は「文化的な感動」なんてものとは無縁ではありますが、明らかに何かを感じさせる力が存在しています。それは、それでパワーではないでしょうか。見たものに脱力感を与えるのは結果であって作者の意図ではないにせよ、無意識しか持っていない力というのを強く感じずにいられません。それらを前にして私は「天然....。」という言葉を口にするでしょう。そうして感じた事を何かに表そうと思うのですが、与えられた脱力感を超える事は、けしてできないのです。そう、無意識には勝てず....。意識と言う傍観者と無意識という対象との間には深くて長い川がありそうです。