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 昨日の突然のデビッド・ボウイの訃報からfacebookなどでは、ずっとひっきりなしに過去のボウイの偉業を称えるトピックなどが流れ続けるものの、日常はいつもと何ら変わらない空気が流れ、とても違和感を感じる。自分が好きだったミュージシャンの死で、なにか言葉を書こうと思ったのは久しぶりだ。こんなにも放置しっぱなしのブログだというのに.....。わざわざ自分が書くことでもないのだが、自分自身の個人的な整理として何か、彼の音楽や表現から感じられたことなどを書こうと思う。

 最初にデビッド・ボウイという名前を知ったのは、確か1970年台の後半、某ロック雑誌で、まだデビューして間もないジャパンのインタビュー記事、影響を受けたアーティストでボウイの名前をあげていたのが最初だったと思う。当時自分は中学一年、日常の身の回りには、けしてない匂いを持ったジャパンの音楽や佇まいに惹かれ、そんな彼らが影響されたというデビッド・ボウイという人物に初めて興味を持った。それからどれくらい後だったろうか?当時、NHKで”ヤング・ミュージック・ショー”という外国のロックのライブを紹介する番組があり、そこにデビッド・ボウイが登場した。おそらく77年頃の来日映像だろうか?今思うとHEROES,Lodger発売後のツアーだったのだろう。なで肩の美形の男から出される声が、まるで脳天に垂直に突き刺さったかのように感じた。華奢な容姿から飛び出してくる刃物のような高音。今思うと、その時のボウイの容姿は短髪だし、ジギーの頃のようには、奇抜ではないはずだが、自分の中に、存在として、何か大きな違和感のようなものが残った感じがした。その頃から、興味を持ち、雑誌や本、ラジオ、レコードといろいろと彼にまつわるメディアを貪るように求め始めたように思う。
 そうして、音楽は当然だが、彼が表現する世界観や活動に、とても強く魅せられていった。表面的には、アルバムごとに極端に変化するサウンドプロダクションやビジュアル。さらに本人の人格さえも入れ替わったかのように感じさせる変わり身の速さ。そうした事柄に通底するのは、はっきりとしたコンセプトだった。ただ、通常であればコンセプトを重視しても、これほどまでの変化はないであろうが、いつも変わり続けた。この点が他のミュージシャンとは大きく異なる点であり、ボウイ自身が過去にインタビューで答えていたように「音楽はアートフォームの一つ」といった考えに基づいて、サウンドのみならず、自分自身さえもキャラクターとして、まるで遠くの星から客観的に眺めるように作り続けたのかもしれない。また、その創作過程で、特に惹かれるのは、好奇心の極端な強さと、それを貪欲に取り入れ、かつ「デビッド・ボウイ」という入れ物の中で、あらゆる素材と混合させることによって生み出されるダイナミックな化学変化だ。知性と感性に裏打ちされた素晴らしい編集能力、それこそがボウイの個性であったように思う。ボウイが創りだした”ジギースターダスト”というキャラクターも当時インタビューで、カルト的な頭のいかれたロックスター、虚像と実像が混在してしまった実在する人物などもベースにしていたなんて発言があった。批評性や実験性をもとに作られる奇妙なリアリティ。そうして残された作品に感銘を受けたファンが、僕を含め、やはり多いのだと思う。また、人を食ったような驚く発言も70年代には多く残したようだった。有名なバイセクシャル発言だけでなく、自分がよく覚えているのは「ロックは最高のファシズムだ」確かそんな発言を本で読んだことがある。批評性の中から物事を生み出していくなんて、今では、よくあることかもしれないが、こんなことを言い放ち、それをとてつもない規模で、それを形にしていった人は他に知らない。
 ボウイが他界してしまい、やはり一つの時代は完全に終わってしまったように思う。それは、自分が感じてきたロック感かもしれないし、具体的には虚構を感じさせるポップアイコンの不在かもしれない。それらに付随するシアトリカルな佇まいのパフォーマンスも、確かに前時代的ではある。”大きな物語”が亡くなってしまった今、より”日常的な小さな物語”が生み出されるようになって久しい。だが、僕達は、今後音楽に触れて、再びワクワクしたり、ドキドキしたりするなんてことは、できるのであろうか?
 彼の他界で、そんなことを強く思っている。