ことば

 最近、なにかと制作や作品について、文章化する機会が多い。ことばで考える作業は、一度、自分のしている行いを客観的に顧みる作業でもある。だが、自作について自分で語るというのも、ことばによって存在が限定されてしまうようで、拒みたい自分も存在する。ことばは、いつも真実と嘘を同時にはらんでいるように感じるからかもしれない。


(制作に関する記述 / 2015年2月18日)

  想像することとは、時に見知らぬ景色に偶然出会うこと。
意識していなかった何かに、世界の中のどこかにある何かに、ほんの少し触れること。
そんな事があるのが、想像することだと思う。

私の作品は全て想像することから始まる。
想像するとは、言っても必ずしも脳だけでイメージする訳ではない。
心を静かに手を動かし、もうろうと記憶の中の何処かをさまよう。
ほんのりと視界が開けて来た方向へ、また手を動かす。

意識下の記憶に触れるように探る行為。
知らない何かに出会いを求め、記憶の奥をさまよう。
既視感のある日常の奥に潜むもの。
生命の姿に出会いたい。
それは、どんな形と色なのだろう。
未だ見たことが無いものを探す旅。

そして、一瞬、見えてきたものを記録し、残しておく。
ただし、それは四角くフレーミングされた絵画ではなく、さらにそこから、生まれるように、
フレームという「制度」「規則」から自由に解き放つため、
枠の中から、外の世界に。

想像することからドローイングへ、描いたものは、四角い紙の中。
紙やキャンバスという枠の中に収まっているものは、その枠から内側だけが”フィクション”であるという”ルール”がある。
だが、ほんの少しだけ、私たちの現実とフィクションの間の境界線を曖昧にしたい。
想像したことが、本当に私たちの前に現れたように。
そうした願いで、私は創作し、過去を顧みながら現在へと形にしていく。