まち





『まち』

上の写真は某ビスケット会社の私設博物館、そう有名なあそこです。写真と『まち』は何の関係もないのだけれど、ここを訪れた時に何か、この単語が思い浮かんできた。何故か失われつつある「まち」を思い出させるのです。それは、住んでいる人々の生命力を感じるような「まち」であり、次から次へと、どんどん変化し、一種雑然としているかに見えて、全てに必然性のある「まち」。「機能」「合理性」ばかりを重視しすぎた都市計画さえも及びもつかない、町の生命そのものが宿っているかのような「まち」です。
この館内で、自分は何故か、そんな「まち」を連想してしまうのです。その理由に、一見、繋がりようのないものを隣に置いていたり、することから、そう感じるのかもしれません。館内には1960年代、70年代,80年代のもの等レトロな昭和グッズのおびただしい量の品々。本当に、その量とコレクションぶりには圧巻です。しかし、それだけではなく、それらの陳列方法に自分が惹かれるものがあるのです。おそらく、その年代にあったであろうものが、個人の意図を超えて存在するかのように、ジャンルの違うものが本来の機能を超えて、そこに綺麗に並んでいるのです。「聖と俗」なんて簡単な言葉では言い表す事が出来ません。混沌とした世界を再構築したかのように、人間社会が生んだあらゆるもの「人々の声」「時代の顔」「理想」「戦い」「欲望」「性」...........「まちづくり条例〜」「青少年育成条例」なんかで、疎外されそうなものも含め、全てが、ここには、ただ「存在」しています。人間のエゴによって綺麗に整理されすぎることなく。

 最近の町、特に地方都市は、何処も似たような風景が多い気がするのです。典型的な日本の郊外型風景と言う感じ。どこも、大手スーパー、ショップのチェーン店の大きな看板が立ち並び、近くにある店も自然と法則があるかのように決まっています。そうした郊外の光景を、どこか寒々しく感じてしまうのは、おそらく私だけではないでしょう。だから、この場所「レトロ○○○○○」が気になってしまう人が多いのでしょうか。
 
 最近、問題視されている東京都青少年育成条例の制定に漂う今の日本の世相、何かを排除する事によってのみ、人々の秩序を保とうという風潮と対局の風景が、ここには感じます。こうしたものが残っていってくれる事を望みます。