K氏の音

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 先週、東京より友人が北海道へ渡ってきた。自作の楽器を携えて。
彼はアーティストとして美術の活動を続けてきた人で、その作品や制作に向かう姿勢に、とても真摯なものを昔から感じてきた。自分のような雑多な人間から見ると、凄く厳しい視点で、どんどん余計なものをそぎ落とし、凛とした空気を纏ったシンプルな表現を生み出す人。そんな印象を感じる人だ。
 そんな彼が自作の楽器を作ったと言う。前から音楽も作ってはいたし、それは、自分から見ると本業かと思う位、とても完成度を感じる音だった。だが、楽器を作る程とは、正直、予想しなかったし、その事実に大変驚いた。それは先入観なのだろうが、通常一つのジャンルで何かをある程度、築いている人が他のジャンルに手を出したところで、余暇程度のものであろうという勝手な思い込みによるものであった。だが、ブログ等で、少しずつ、制作にいたる、その過程を読み、また、「solar project」というプロジェクト、太陽光のエネルギーを蓄電して演奏する電子楽器を製作した趣旨等を読むにつれ、何となくではあるが、氏のアートに対する姿勢と同等のものを感じ、今回のプロジェクトに至る要因や心情的なものを勝手に想像し理解したつもりになっていた。
 今回、氏にあって直接話をし、プロジェクトを見て、氏のプロジェク意図に対しての見解など、自分が想像していたことをいくつか質問してみたり、話を聞くことができた。自分が想像していたことと、何となく近いのかな、と感じた点もあったし、そうでない点もあった。だが、なにより強く感じたことは表現者として時代の中で精一杯呼吸し、その中で考え、表現へと結びつけていこうとする、「一表現者の真摯な姿勢」である。
 以下、勝手な戯言かと思うが、わたし達人間は2011年3月11日の震災以降、あらゆることを為されている気がして仕方が無い。世を動かしている、政治、経済、文化は時代の中で、いつも連携し合いながら動き、変化してきた。それは、それで価値あることではあったかも知れないが、この後という時代を考えた場合、「本当に、このままで良いのだろうか?」という懐疑の念を多くの人が抱いていることと思う。表現者の多くは、この災害に敏感に反応し、困惑し、それに合わせて「何を表現すべきか?」という命題にぶつかり、そこで模索している人が多いと感じる。厳密に見ると、安直に反応している人と、己の表現と真摯に向き合いながら葛藤している人がいるように見える。後者は簡単に、そんなに答えが簡単に見えなくとも、表現者以前に一人の人間として、真剣に模索している姿が見られる。
 今回のK氏の活動もまた、そう言ったものと個人的には思っている。このプロジェクトの趣旨の一つに

悪天候の日は演奏できません。」というのがある。

太陽光エネルギーから蓄電するので当たり前ではあるが、通常の発電の電気エネルギーとはかけ離れた考えである。これまでは、電気は、いつでも好きなだけわたし達は使ってきた。
いささか、これは飛躍しすぎた勝手な見解かとも思うが、自然エネルギーは限られた大切な資源であリ、必要な分だけ頂くということ。(自然のルールに従う)そして、エネルギーは自然から供給し、それと共にわたし達も存在するという前提。自然の命を頂戴し、今日の命があるという感謝、自然エネルギーから、何かを感じ取り、それを変換し、表す喜び。そんな根源的なことを指し示してくれている気がして仕方が無い。
 『悪天候の日は〜』という一説から、今のわたし達の生活の状況「好きな時に好きなだけ」そうした勝手な欲を基盤として動く社会システム、経済。そうしたところから離れた価値観。わたし達人間は所詮、自然の中の一部に過ぎないと認識すること、そんなことを勝手に思った。

K氏のプロジェクト
http://solar-garden.tumblr.com/