COMPLEX

UES2009-11-01

 人にはそれぞれ何かしらのコンプレックスというものがあるだろうか。私には存在する。コンプレックスとあえて言う程大きなものではないし、大人になった今、それを意識する事は無いが、子どもの時には存在したし、自己形成の上で、それが原動力になった気もする。それはバカバカしい事だが「背が低い」という事だった。たったそれだけの事なのだが、当時の自分にとって、どうしても乗り越えられない壁のようなものであり、その身体の中に閉じ込められているような気分だった。だが、人は、そのような現実に折り合いを付けたり、その中で様々な事に気づいていく。人には与えられた領分がある。それを意識し、如何に特性として伸ばす事ができるかに人としての成長があるような気もする。
 こう言った事を意識し、大人になり徐々にコンプレックスから自然と解放されたような気もするが、時に自分が持っていない他人の領分が羨ましく感じ、それを望む事も、いまだにある。私の場合、ここ数年感じていたのは、イマジネーションを形にすべく「絵画表現」という手段を選んだが、それは写真と同じく切り取られた断片、静止した時間であり、「想像の中での時間」は有するが「現実の中での時間」を持っていないという事である。絵画という、これらの断片は全て自分のイマジネーションの中でつながっているものであるが、自分の身体を通して生み出す事ができるのは静止画としての止まった時間である。この時間に対するコンプレックスがある。こう意識して書いていると、これは今に始まった事ではない事を思い出してきた。若い時分から、同じ事を感じ、ビジュアルが動く映像表現や時間の中を泳ぐ音楽等の表現に対してコンプレックスを感じていた。特にこれらは鑑賞する人と「共有する時間」を通してイマジネーションを伝える事ができる。鑑賞する人と同じ時間を持つ事、それは自分にとって届かぬ憧れであった。近年、考えていたのは自分の絵が回ったり動かないかなという事。想像したものが「時間」という「現実」になってくれないかと考えていた。実際に自分の絵を鑑賞した方から「動くと面白いですね」「動いてるみたい」という感想もいただき見ている部分の共通項を感じていた。自分の持っている技術、肉体では想像した事を静止画に表す事、ここまでである。そうした特性を意識し、如何に深めていくかに自分のやるべき事はあるのかもしれない。しかし、拭いきれない「時間へのコンプレックス」
 全くの時の偶然によって、先日、こうした私のコンプレックス、絵が動かないかという夢想をある二人が実現してくれた。ナカマルダイスケ氏、田仲ハル氏である。以前から、お知らせしていたイベントが行われた。ナカマル氏が制作した映像、私の絵が生命を帯びたように、どんどん動き、次から次へと別の形へ変化していく。まさにまさに私の願いを具現化してくれた。そうしたイマジネーションの時間軸の中を現実の肉体を通して、また別の時間を創出してくれた田仲ハル氏。
この二人に大変感謝する。繋がる事によって、己の領分を超え越境する事が時に可能である事、そうした事を感じた。本当に自分にとっては貴重な時間だった。
 また、自分は個の中に戻っていこう。自分にできる事を探して。


10月31日(土)「in my blood」〜絵画(上嶋秀俊)×映像(ナカマルダイスケ)×舞踊(田仲ハル)〜の写真は下記にあります。
http://fotologue.jp/ues-eyes/