地域とアート(その一)

 先日、ある講演にてビエンナーレに関する話を聞いてきた。一つは、今年、既に行われた「あいちトリエンナーレ」。そしてもう一つは現在、構想中と言われている「さっぽろビエンナーレ」。気がつくと、ここ何年か、日本中いろんな地域でアートビエンナーレトリエンナーレなどの国際芸術祭が開かれ始めている事に気づく。他には瀬戸内芸術祭、越後妻有などがあっただろうか。どの国際芸術祭も、やはり趣旨としては「創造的まちづくり」という事が謳われているようだ。具体的には、国内外の現代アートを地域で紹介する事により、地域からの国際的な文化情報の発信。まちの外からやってくるアーティストや来訪者と地域の人々との交流発展による街全体の活性化といったことが目的となっているようだ。

 ここからは、あくまでも私見でしかないが、これらの芸術祭などの情報から、印象として何となく思ってしまう事が一つある。それは、日本中あちこちで起きている『町おこし』という大義名分のもと『アート』が担ぎ込まれているようにも感じる部分だ。「アートで町おこし」何も悪い事ではない。むしろ、自分にとっても、郷土愛から地域の発展は願っていることだし、もう一方の「アート」についても、広く多くの市民や地域の方々に紹介され、大きな祭典として行われる事は、「アート」がより多くの人に開かれた存在となるであろうし、それは自分自身にとっても、願ってやまない事である。だが、少しだけ気になってしまうのだが『アート』が大手を振って、どうどうと、様々な立派な大義名分のもと『良き事』として進んでいく姿に、何か少しだけ違和感を感じてしまうのだ。
 自分の感じた事が、過剰な思い込みだと言われれば、それまでだが、『アート』や『芸術』というものが社会的任務や目的を与えられてしまうような印象を感じてしまうのだ。例えば芸術や表現というものが社会的、もしくは政治的なもののツールとして使われてはおかしいと思うし、表現とは、社会的な事柄から「自由」であり、ニュートラルな視点や姿勢を持つべきものと思っている。表現は社会の中で起きている具体的な事柄からは、さらに遠く、「善い」とか「悪い」とかいった人間的な価値観等からも遠く離れた、狭い言語に集約不可能な『存在』そのものであるべきだという、極めて私の思い込みにより、「担ぎ込まれて〜」と感じてしまうものと思う。それと、もう一つは社会の中でのアートの認識の変容に感じる事。「芸術」がカタカナ表記の「アート」となり、その語はポピュラリティーを得て広く浸透した。ただ、それと同時に、何かが変質し始めているのかもしれない。

 いずれにしても、アートの発展、地域の発展、これは両者にとって願うべきもの。「存在の質」と「それを伝える」こと、この二つはアーティストや表現に携わる者に限らず、皆に、必要な事と思う。